ファインダー越しの記憶~初めての「全英」で見たノーマンの悲劇 1989全英オープン

写真・文:宮本卓 | 構成:GDO編集部

01 1989年 ロイヤル・トゥルーンへ

僕が初めて「全英オープン」に行ったのは、今年の開催コースと同じロイヤル・トゥルーン。1989年のことだった。グレッグ・ノーマンが強かった頃で、そこにセベ・バレステロス、ニック・ファルド、サンディ・ライル、ベルンハルト・ランガー、イアン・ウーズナムのヨーロッパ勢が絡んでいく。世界のトップクラスの構図はそんな状況だった。

02 トレビノのおしゃれなフェード

初日はベテランのリー・トレビノが4アンダーで2位タイにつけた。打つ寸前まで喋っていて、同伴競技者やギャラリーを楽します。そしてワッグルを数回した後、オープンで構えたスタンスから矢のようなフェードボールを放つ。誰もがうっとりするような球筋でパーシモンならではの芸術的ショットだ。

03 レジェンドたちの競演

1971、72年の全英チャンピオンで当時は49歳。同組で回ったのは、誕生日が約1カ月しか違わないジャック・ニクラス。束の間、86年マスターズを制したニクラス復活が思い出されたのも無理はない。結果的にトレビノは42位、ニクラスは30位に終わったが、若い選手に埋もれることのないレジェンドたちの存在感は、永遠の輝きにも思えた。

04 4ホールでのプレーオフ

優勝争いは、最終日に「64」で回ったノーマンがマーク・カルカベッキア、ウェイン・グラディと通算13アンダーで並び、プレーオフとなった。僕にとってはプレーオフが4ホール(1、2、17、18番)というのは初めての経験で、最初アナウンスされた時はすぐに理解できなかった。マスターズと全米プロはサドンデスだし、全米オープンは翌日18ホール。後で知ったことだが、全英オープンのプレーオフが4ホールになったのはこの大会からだったらしい。

05 ノーマンの表情が変わった

ノーマンは快調にパットを決め、1番、2番で連続バーディを奪って、楽勝ムードさえ漂わせた。17番、ピンへと向かったショットはグリーンを少しオーバーした。ライも良かったせいか、ノーマンはそこから強気にカップを狙いにいった。しかし、アプローチはピンをかすめて2mオーバー。パーパットも外してしまった。この時点でカルカベッキアと1アンダーの同スコアで並んだ。

18番ティに上がった時、それまでイケイケだったノーマンの表情は変わっていた。先にティショットを打ったカルカベッキアは大きく右に曲げてギャラリーの方へ。ノーマンはいつもより長く、ワッグルを繰り返した。左サイドには3つの大きなバンカーがあるため、右サイドの方が安全だ。右方向には打ち出したが、アドレナリンが出たのかボールが飛びすぎ、一番入れてはいけないフェアウェイ右のバンカーに入れた。

06 まさかの結末

カルカベッキアの2打目はギャラリーに踏み固められたラフが幸いしてピン手前2mにつけるスーパーショット。これを見たノーマンは無理にピンを狙ったものの、厚く入ってグリーン30yd手前のバンカーに入れてしまった。そして3打目はグリーンをオーバーし、クラブハウス前の砂利のところに止まった。ボールに競技委員が近づく。そして、まさかのOB宣言。ギャラリーも報道陣もカルカベッキアもこの結末に唖然とした。ノーマンはそれ以上プレーをせず“ギブアップ”。プレッシャーのなくなったカルカベッキアは難なくバーディパットを決めて初のメジャータイトルを勝ち取った。

ノーマンの悲劇。初めて撮影で行った「全英」が、いまでも記憶に鮮明な理由だと思う。

宮本 卓Taku Miyamoto

1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Clubほか、国内数々のオフィシャルフォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。

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