01 エルニーニョ旋風
1999年全米プロの舞台は、シカゴ近郊の名門メダイナCCだった。タイガー・ウッズは依然として高い注目度だったが、1997年に驚異的なスコアで初制覇したマスターズ以降は、メジャー2勝目を挙げられずにもがいていた。一方、セルヒオ・ガルシアはマスターズでローアマを獲得してプロ転向したばかり。7月のアイリッシュ・オープンで早くもプロ初優勝を飾り、勢いに乗っていた。
02 大ギャラリーが詰めかけた
当時19歳のガルシアは「エルニーニョ」というニックネームで現地紙などに報じられていた。ツアーの現場では「暴れん坊」というニュアンスでそう呼ばれていたのだが、なぜか日本では「神の子」として騒がれた。そして迎えた全米プロ、ガルシアは初日6アンダーで単独トップに立った。22歳ウッズ vs.19歳のガルシアの試合展開。異常ともいえる数のギャラリーがメダイナに詰めかけた。最終日はタイガーが通算11アンダーの首位タイ、ガルシアが2打差の3位タイからスタートした。
03 タイガー楽勝ペース一転・・・
タイガーが11番を終わって通算15アンダーまで伸ばし、余裕の逃げ切り劇に思われたが、12番でボギー、13番はダブルボギーをたたき、追うガルシアが一気に1打差へと迫った。それまでタイガーにレンズを向けていた大勢のカメラマンたちもひとつ前の組にいるガルシアのプレーが気になり始めた。
04 ガルシア組へカメラマン移動
付いているカメラマンの数の増減は、スコアボードを見ることなくプレーヤーが優勝戦線の異変を感じとる要素となる。僕もガルシアの組に追いつき、15番から撮影を始めたが、いきなりボギー。そして大きく左にドッグレッグした16番では、ティショットがフェアウェイを突き抜け、ボールが右サイドの木の根元についた。
05 強攻・・・ガルシアの決断
誰の目にも刻むしかないような状態だったが、悩んだあげくガルシアは直接グリーンを狙うことを選択した。フルスイングすればクラブが折れることも想定される。無謀とも思える決断に、すぐそばでその瞬間を狙うカメラマンたちにも緊張が走った。ガルシアは大きくスタンスを左に向けてカットにフルスイングした。目を閉じ、顔も上がったその姿は、到底スイングとは呼べないようなしろものだった。
06 スーパーショット!
そしてスライスボールをグリーンよりはるか左へと打ち出すと、まっすぐグリーンに向かって走り出し、大きくジャンプした。目指す先からどよめきと大歓声が沸き起こった。ボールがグリーンを捕まえたのだ。結局、ガルシアは16、17、18番の3ホールをパーにまとめ、タイガーのホールアウトを待った。
07 通算2勝目へ燃えたウッズ
先ほどの大歓声は最終組にも届いたに違いない。タイガーは16番のボギーで再びガルシアと1打差となったが、17番で4mのパーパット沈めてガッツポーズ。そして18番は完璧なティショットでフェアウェイを捉えると、そこからピン5mにつけて優勝を確かなものにした。
現在まで通算14勝を数えるタイガーのメジャー優勝の中で、この時ほど苦悩の表情だった4日間は記憶にない。そしてガルシアは、いまだメジャーでの優勝を手にできずにいる。
宮本 卓Taku Miyamoto
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Clubほか、国内数々のオフィシャルフォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。