01 パーシモンからメタルへ
初めて取材に行った1989年の全英オープン。ちょうどその頃は、何人かの選手がメタルのドライバーを使い始めた頃で、大会にはパーシモンを使っている選手とメタルを使っている選手が入り交じっていた。時代がパーシモンからメタルへと変わりつつある、まさに真っ只中。面白い時代だった。
なんといっても注目は、当時42歳のジャンボ尾崎。同年の全米オープンでは、最終日の13番ホールを終えてトップに立ち、最終的に6位タイの自身メジャー最高成績を収めたばかりだった。
それまでドライバーではマクレガーのトミー・アーマー945のパーシモンにこだわりを持っていたジャンボ。だが、息子の智春くんが高校生でメタルを使い始めたことで、練習場では試し打ちを繰り返し、半年ぐらい経った88年のワールドカップ(オーストラリア・ロイヤルメルボルンGC)からメタルに切り替えていた。
02 元祖ゲストレポーター
金色のシャフトを刺したテーラーメイドのツアーバーナーは、その飛距離で全英会場でも注目を集め、練習場にいても、物珍しそうにジャンボの後ろ姿を眺める海外記者は少なくなかった。
そんな報道陣の中にはひときわ目立つ存在もいた。テレビ中継(テレビ朝日系)でゲストレポーターを務めた長嶋茂雄さんだ。当時はプロ野球・巨人の監督を退いていた期間で、いまで言う松岡修造さんのようなポジションとして活躍していた。プロ野球の大先輩ということもあるだろう、ジャンボが嬉しそうに長嶋さんとグリーン談義をしていたシーンを撮影していた。
03 3兄弟ともに予選突破
そして、ジャンボの注目度が高かった理由はもうひとつあった。尾崎3兄弟が揃ってメジャーに出場した初の試合でもあったためだ。もちろん世界でも3人同時は初めて。地元の新聞もそのことをニュースとして取り上げ、その当時3人が履いていたズボンを茶化しながら、「きっと、その大きなポケットにいっぱい賞金を詰めて帰るんだろうな。。。」などと記事にしていた。
当時の日本はバブル景気のピークで、多くの観戦客が日本から訪れ、カシミアセーターを“爆買い”していたことも思い出される。イギリスの新聞は、そんな異様なムードを敏感に記事にしていたのだと思う。
3兄弟ともに予選を突破して4日間プレー。結果は、ジャンボが通算2アンダーの30位、尾崎健夫は最終日に「78」と崩れて通算1オーバーの46位、初日に「75」と出遅れた尾崎直道は通算3オーバーの52位で、年齢順だった。
その後、10年以上にわたって続く、第2次ジャンボ尾崎黄金期の始まりでもあった。
宮本 卓Taku Miyamoto
1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Clubほか、国内数々のオフィシャルフォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。