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ファインダー越しの記憶~ウッズの衝撃、レナードの優勝…そしてジンクス 1997年全英オープン

写真・文:宮本卓 | 構成:GDO編集部

01 時代が動いた1997年

1997年はゴルフ界にとってセンセーショナルな年だった。96年8月に20歳でプロ転向したタイガー・ウッズが、プロとしては初のメジャーだった4月のマスターズを、2位とは12打差の通算18アンダーという驚異的スコアで優勝。タイガーの出現は、アメリカのみならず世界中の人々の注目をゴルフへと向けた。

02 プロ1年目ウッズの衝撃

それから約4カ月後の全英オープンでも、その衝撃は一向に衰えていなかった。ロイヤル・トゥルーンに最寄りのプレストウィック空港にはタイガーを一目見ようと市民が集まった。普段はほとんど利用されることのないローカル空港だが、このときばかりはメディアや警官が大勢いて、一種異様な雰囲気に包まれた。大型のプライベートジェットが到着し、タラップからタイガーがラフな格好にサングラスをかけて降りてきた。21歳とは思えないオーラを放っていた。

03 地元モンティの気負い

コースでもタイガーの話題一色だった。本来なら前年の賞金王で6月の全米オープンでも2位だった地元スコットランドの英雄コリン・モンゴメリーが注目を浴びるところだが、この年ばかりは相手が悪かった。モンティーのお父さんは永らくこのロイヤル・トゥルーンでセクレタリー(日本でいう理事長)の要職に就いていて、このコースではモンティーもメンバーのようなものだったのに…。

いつも以上の気負いもあっただろうか。モンティーは初日に「76」をたたいて早くも優勝戦線から遠のいた。

04 「64」のタイガーチャージ

一方、タイガーは「72」「74」と予選ラウンドこそ出遅れたものの、3日目に「64」で8打差8位まで追い上げて、注目の大きさに応えた。最終日ひょっとしたらという一縷の望みを残していたが、「74」とスコアを崩して24位フィニッシュ。日本勢では丸山茂樹が10位に入った大会だった。

05 50年以上続く全英のジンクス

ロイヤル・トゥルーンで行われた全英オープンは、1962年アーノルド・パーマーが勝って以降、73年トム・ワイスコフ、83年トム・ワトソン、89年マーク・カルカベッキアとアメリカ人選手の優勝が続いていた。

この年は、3日目を終わって11アンダーでイェスパー・パーネビックが単独首位に立ち、2位は9アンダーでダレン・クラーク。そして3位タイの6アンダーにアメリカ人のフレッド・カプルスとジャスティン・レナードが並んだ。最終日、周りの選手がスコアを崩す中、「65」をたたき出したジャスティンが見事にメジャー初優勝。またしてもアメリカ人チャンピオンが誕生したのだった。

06 スピースへ続く系譜

当時25歳のジャスティンはゴルフの名門テキサス大の出身で全米アマチャンピオンを獲得してからプロ転向。パッティングの名手で、大学の先輩にあたるベン・クレンショーを彷彿とさせるプレースタイルだった。この流れは同大出身のジョーダン・スピースに受け継がれ、アメリカのゴルフファンが好きになるタイプのアメリカ人ゴルファーの原型ともいえる。

2004年に開催された際もトッド・ハミルトンが制して、ロイヤル・トゥルーンのジンクスは50年以上続いている計算だ。今年もまた、アメリカ人が勝つのか、、、

宮本 卓Taku Miyamoto

1957年、和歌山県生まれ。神奈川大学を経てアサヒゴルフ写真部入社。84年に独立し、フリーのゴルフカメラマンになる。87年より海外に活動の拠点を移し、メジャー大会取材だけでも100試合を数える。世界のゴルフ場の撮影にも力を入れており、2002年からPebble Beach Golf Links、2010年よりRiviera Country Clubほか、国内数々のオフィシャルフォトグラファーを務める。また、写真集に「美しきゴルフコースへの旅」「Dream of Riviera」、作家・伊集院静氏との共著で「夢のゴルフコースへ」シリーズ(小学館文庫)などがある。全米ゴルフ記者協会会員、世界ゴルフ殿堂選考委員。

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