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「サラサーテの盤」がいざなう背筋がひんやりとする物語

夏の盛りにぴったりな、背筋がひんやりする小説にちなんだ音楽を文筆家・青野賢一さんにセレクトしていただきました。

夏といえば怪談と相場が決まっている。今の時代だとホラーと言ったほうが通りがいいかもしれない。しかし、ホラーというとキリスト教的な倫理観に基づいた二項対立、つまり聖なるものと邪悪な亡霊や異形が対決する印象が強い。一方、『四谷怪談』や『真景累ヶ淵』、『番町皿屋敷』といった日本の古典怪談には、因果応報の傾向があり、「幽霊=悪」とは必ずしもいえない。

また『牡丹灯籠』などは、どこか人情噺の風情もあって実に幅広い。このように、怪談はホラーと一括りにするには違和感がある話も含まれていて、そこが面白い。だからここでは、怖い話、ゾッとする話、不思議な話などを含んだ「怪談」という語を採用することとしたい。

なぜ夏に怪談かといえば、それは「肝を冷やして涼をとりたい」から。では、人はどのようなことに恐怖を覚えるのだろう。これは当然ながら個人差があるわけだが、まず思いつくのは、恐怖映画での表現に代表される造形のインパクトではないだろうか。幽霊や怪物のように、この世のものとは思えない姿には、生理的嫌悪に加えて何をするかわからないという恐ろしさがある。そしてそこから、自分の生命の危機を感じるのだろう。

このような直接的な恐怖表現の一方で、心理的な恐怖を引き起こす事象もある。原因は分からないが音が鳴ったり、物が動いたり、あるいはそこまで具体的でなくともなんらかの嫌な気配がしたり。こうしたことから考えると、心理的な恐怖は、空気や音といった目に見えないものから引き起こされることが多いように思う。

心理的にゾッとさせられる話で私が好きなのは、内田百閒の小説「サラサーテの盤」だ。幽霊など出てこないこの作品を怪談と称していいかはさておき、読んでゾクッとするという意味において、わたしにとっては立派な"怖い話"である。鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980)の原作でもある本作は、題名のとおり、スペインの作曲家でバイオリン奏者のパブロ・デ・サラサーテの「Zigeunerweisen(ツィゴイネルワイゼン)」のSP盤がいざなう、背筋がひんやりとする物語だ。語り部の友人・中砂が亡くなった直後、語り部が借りていた本やレコードを中砂の妻・おふさが引き取りにくる。その中のひとつが、サラサーテのSP盤である。

『The Great Violinists, Vol. 21 (1904-1915)』

作中のこの盤は1904年の録音で、曲の途中でサラサーテ本人が何か話しているのが吹きこまれてしまっている。リンクを貼りつけたコンピレーション・アルバムに収録されているバージョンはおそらくそのときの録音をもとにしたものだろう。余談になるが、1980年代前半、瞬間接着剤アロンアルフアのCMでこのSP盤が使われている。あれは清順の映画へのオマージュだったのだろうか。

さて、「サラサーテの盤」に戻ると、おふさが語り部にいうには、中砂の死後、娘のきみ子(前妻との間の子)が寝ている最中、決まった時刻に「一心に中砂と話している様に思われる」。そして「その時のきみ子のよく聞き取れない言葉の中に、きまってお宅様の事を申します。きっとこちらにきみ子が気にする物がお預けしてあるに違いない」(岩波文庫『東京日記 他六篇』所収)。これを聞いた語り部は「頭の髪が一本立ちになる様であった」。どうだろう、このよくわからない怖さは。本作を未読の方にはまるで伝わらないかもしれないが、おふさの醸しだす何ともいえない不気味なムードが全体に漂っているので、ご興味のある向きはぜひお手に取っていただけたらと思う。

くだんのサラサーテのレコードを語り部がおふさに届けにいく場面が、本作のクライマックス。返ってきたレコードを蓄音機で再生していると、サラサーテが何か話している箇所で「いえ。いえ」「違います」という、おふさ。このあとも、おふさの言葉と行動の描写が少しだけ続くのだが、それがまた怖い。

果たしておふさは、いったい何を聴いていたのだろうか。

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青野賢一(あおの・けんいち)/文筆家、選曲家、DJ

1968年東京生まれ。セレクトショップ「ビームス」にてPR、クリエイティブディレクター、〈ビームス レコーズ〉のディレクターなどを務め、2021年秋に退社独立。ファッション、音楽、映画、文学、美術などを横断的に論ずる文筆家としてさまざまな媒体に寄稿している。2022年に『音楽とファッション 6つの現代的視点』(リットーミュージック)を上梓。

Edit : Yu Sakamoto

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