慌ただしい日常から一瞬で別世界へと誘ってくれる映画。毎月たくさんの作品が世に送り出される中で、BRUDERの読者にぜひ観てほしい良作を映画ライターの圷 滋夫(あくつしげお)さんに選んでいただきました。
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』/6月21日公開予定
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』は、今年のアカデミー賞で主要5部門にノミネートされ助演女優賞に輝いた話題作です。舞台は1970年冬、クリスマス休暇で生徒がいないボストン近郊の名門バートン高校。厳格で嫌われ者のハナム先生と、頭は良いけど反抗的な問題児アンガス、そしてクールな寮の料理長メアリーとの共同生活が始まります。
本作は舞台となった1970年へのこだわりが非常に強く、冒頭に流れる映画会社のシンボルマークムービーは、まるでこの映画が当時に作られたかと思うほど古風なデザインとなっています。本編もフィルム撮影のような映像の質感(実際はデジタル撮影)。音楽は当時のヒット曲を中心としながら、最近の楽曲も70年代の雰囲気を持ったもので、劇伴も当時の空気感が伝わる楽器やアレンジ、録音で統一されています。そしてエンドロールの短さは今時のアメリカ映画では有り得ない!当時の映画を知る人には懐かしく、若い人には新鮮に映るでしょう。
逆に物語は時代も世代も超えて、誰もが共感できる普遍的な感情が描かれています。最初は相容れない3人が少しずつ心を開き、やがて胸に抱えた想いを少しずつ分かち合うようになります。ハナムは人と上手くやっていけない孤独を、アンガスは複雑な関係である親との葛藤を、メアリーはベトナム戦争で息子を亡くした悲しみを…。小さな失敗は3人で助け合い、何とか乗り越えます。ある日、ハナムとアンガスは車でボストンに向かいますが、そこで予想外の事件が起こり互いの秘密が明かされて…。
この作品は細部に行き届いた脚本が秀逸で、3人の印象が始まりから少しずつ変化していき、最後には全員が愛おしく思えてきます。例えば、堅物のハナムは実は陽気で可愛いところがあり、欠点が微笑ましく見えたりもします。また物語もそれぞれの哀愁に満ちた人生を描きながら、随所にキレのある笑いがまぶされ、見終わった後はむしろ愉快で痛快な心温まる人間ドラマになっています。
当然そこには賑やかなゲームやSNSもないし、無敵のヒーローもキラキラした推しも出てきませんが、心の琴線に触れる何かは日常のあちこちに隠されています。そして人生はほろ苦いこともあるからこそ、誰かに寄り添うことの尊さが胸に染み、深く心に響くのです。そんなことを実感させてくれる、胸の奥にそっとしまっておいて時々取り出して眺めたくなる、珠玉の映画です。
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』 https://www.holdovers.jp/
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圷 滋夫(あくつ・しげお)/映画・音楽ライター
映画配給会社に20年以上勤務して宣伝を担当。その後フリーランスになり主に映画と音楽のライターとして活動。鑑賞マニアで映画とライブの他に、演劇や落語、現代美術、コンテンポラリーダンス、サッカーなどにも通じている。
Edit : Yu Sakamoto