予定調和の呪縛から解き放つ『一千一秒物語』の空想力

友人からでも、家族からでも、書評でも、課題図書でもない「オススメの本」を読んだことはありますか? 現実と少し距離を置く“小説の世界”への入り口は、時に不意の方が新鮮で心踊りそう。東京・六本木の本屋「文喫 六本木」のブックディレクター・及川貴子さんにBRUDER読者をイメージした一冊を選んでもらいました。

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『ちくま日本文学016 稲垣足穂』/稲垣足穂

中秋の名月はご覧になりましたか? 月は美しさと同時に、不死の薬を残して月へ去ったかぐや姫、月に触発されて姿を変える狼男など、洋の東西を問わず、人を不思議な想像の世界へ誘ってきました。今回は、そんな月がたびたび登場する、とびきり奇妙な稲垣足穂の物語群をご紹介します。

稲垣足穂は、飛行家、画家などを目指したのちに文学に転じ、各地を放浪しながら文壇から離れた場所で独特の感性・作風の作品を書き続けた作家です。例えば、代表作の一つである『一千一秒物語』では、カフェでビールを飲んでいる“お月様”とけんかをしたり、タキシードに身を包んだ大勢の紳士が“月”からやってきてセダンに乗ってホテルに出かけたり、卵だと思って食べたものが実は“お月様”だったり、突拍子もない出来事が次から次へと起こります。

すべては当然のことであるかのように起こり、読者は想像したことのない世界へと放り出されます。言葉も習慣も全くわからない異国の地に、ひとり降り立ってしまったような気持ち。自分を今いる場所から解放して新しい世界に目を向けたときに感じる、気持ちのいい戸惑いとよく似た感情を私は感じました。

予定調和の日常を離れ、目を閉じて空想にふけることで、脳を癒し、独創的なアイデアが降りてくる可能性を上げてみる。一見、意味のないように思えることこそ、大きな意味があるのかもしれません。

『ちくま日本文学016 稲垣足穂』稲垣足穂(筑摩書房)/¥968(税込)

COOPERATION

文喫 六本木 副店長/ブックディレクター 及川貴子

2018年日本出版販売入社。2022年4月より文喫 六本木副店長兼ブックディレクターとして、企画選書や展示イベント企画、本のある空間のプロデュースなどを行う。

Edit : Junko Itoi

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