
目抜き通りに伸びる一本のわき道。「東京」をぶらぶらと散歩すると、どんな出会いがあるのか。今回は東急東横線渋谷駅で電車を降りた。(BRUDER編集部・合田拓斗)
渋谷「名曲喫茶ライオン」
初めての「東京」は渋谷だった。高校の通学路だったので、3年間、ほとんど毎日そこにいた。映画を観るのも本を買うのも、友人と遊ぶのも渋谷だった。ほかの選択肢を知らなかったからだ。

この10年、街はとどまることなく変動してきた。47階建てのスクランブルスクエアが2019年に開業し、55年の歴史を誇った東急百貨店は23年になくなった。ビルの陰が折り重なった交差点を渡る人々は、年々ボーダーレスになる気がする。

駅を出て宮益坂の交差点で折れ、線路に平行して歩く。トンネルをくぐってPARCOまで行き、オルガン坂を下ってセンター街へ。それから文化村通りに入り、ライブハウスなどがあるランブリングストリートを抜けた。
そういえば、MIYASHITA PARKも10年前にはなかったよなと思う。通い詰めていたジュンク堂書店は百貨店とともに閉業。友人と見つけたクレープ屋は3年前に、クラスで行ったピザ屋はことし2月に潰れていた。

思い出の場所を改めてたどるのも悪くない。見慣れた通りに、自分の足跡を見出すことができる。当時は街を“観察”なんてしていなかった。考え事で頭がいっぱいだったからだ。渋谷にいる多くの若者と同じように、なにが悩みかもよく分かっていなかったけれど。
いまはもっと具体的なことを考える時間が増えた。それが良いことなのかどうか、分からない。

百軒店の鳥居を越えて道玄坂方面に進むと、古めかしい西洋風の建物が見えてきた。木造の3階建て。電灯が入口をささやかに照らし、石壁には過ぎた時間の跡が浮く。玄関窓に映る店内は、曇天の外よりもさらに暗かった。

扉を開き、時が止まったような佇まいの室内へ。目に入るのは奥にある大型のスピーカーだ。古い時代のCDやレコードが並び、天井にはシャンデリアが下がる。ボックス席を除くすべての座席がスピーカーに正対する。まるで演奏会でも始まるような雰囲気だ。
「名曲喫茶ライオン」はクラシック曲が流れる喫茶店。当時24歳だった山寺弥之助さんが昭和元年(1926年)に開いた。現在は3代目で91歳の石原圭子さんの息子、山寺直弥さんが店長代理を務める。直弥さんは義父である弥之助さんについて、「厳しい人であり、優しい人でもあった」と話す。

ヨーロッパらしい外観、内装はともに初代がデザインを手がけた。弥之助さんの生家は福島県会津若松市の蔵元。建築の勉強はおろか、海外渡航経験すらなかったが、「(西洋への)憧れがあったんだと思う。エネルギッシュで、こだわりが強かった」。テレビもインターネットもない時代。若者は渋谷で“夢”をかなえた。
1945年3月10日、店は空襲により全焼する。焼け野原となった街で、弥之助さんはいち早く復興に立ち上がった。国全体が物資不足にあえぐなか、山奥に踏み入って自力で資材を調達。5年後に再建を果たした。デザインは戦前とまったく同じだった。
建物の入り口側半分は当時のまま。今年で75年目になる。

“通”が集うオトナな店…かと思えば、便所の壁には落書きがある。学生運動が盛んだったころのものだ。「成田闘争やら赤軍やら、すごい時代だった。まだテレビはなく、娯楽と言えばラジオや映画くらい。喫茶店で音楽を聴くのもその一つでした」。当時の若者は、音楽に耳を傾けながらなにを思ったのだろう?

客の中には60年以上通う常連もいる。定年後に学生時代の思い出の場所に帰ってきた人もいた。「50年ぶり、って言っていました。入口に立って見渡して、『まったく変わっていない』と。店は来年で100周年ですが、あと何年やるかは決めていない。できる限り、続けていこうと思っています」
コーヒーの味わいは創業時から変わらない。1曲リクエストができるので、ベートーヴェンのピアノソナタ『悲愴』をお願いした。“心を裸にされるような”という表現は、こういう時に使うのだと思った。

気がつけば、当てもなく考え事をしていた。やっぱり答えは出なかった。
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COOPERATION

名曲喫茶ライオン
〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂2丁目19-13
TEL 03-3461-6858
東京の道を曲がる
Edit & Text & Photo : Hiroto Goda








