人や車の行き交う目抜き通りから伸びる一本のわき道。不意の出会いに心を引かれ、思わず“道を曲がった”経験はあるだろうか? 喧騒を離れ、見知らぬ道を歩いていると、なんだか異世界探訪でもしているような気持ちになる。首都「東京」の街をぶらぶらと散歩すると、どんな出会いがあるのか。今回は新宿駅で電車を降りた。(BRUDER編集部・合田拓斗)
新宿「カフェアルル」
夏が終わろうとしている。
最近の日本の夏はとにかく暑い。各地で35℃を超える猛暑日が続き、外出時の熱中症対策は不可欠だ。“災害級”という表現も過言ではないだろう。海や山をかけ回る、夏らしいバケーションを気兼ねなく楽しめたのは、もう一昔前の話なのかもしれない。
では、変わらないものはなんだろう?
新宿を歩いていたのも、ちょうどそんな時節だった。強烈な日差しがビルの窓ガラスに反射して、街は燃えんばかりに輝いている。歩くだけで全身に汗が浮いて、シャツに粘っこいシミを作る。流行りの手に持つ扇風機(ハンディファン)が、道行く人々の手元でくるくると回っている。
東口を出て迷路みたいな歌舞伎町を通り、新大久保で折り返して新宿三丁目へ。世界一のターミナル駅として知られる新宿だが、その表情は“路地ごと”に変わる。人声で浮き立つ通りがあれば、ひっそりとした小道がある。路面に開かれた店から漂うにおい同士がぶつかって、まるで工場油のプールを泳いでいるみたいな気がする。繁華街を抜ければ「新宿バッティングセンター」から打球音が響き、公園ではまだ蝉が鳴いている。都会で蝉の音を聞くのは久しぶりな気がした。
散歩好きは雨が降ろうが槍が降ろうが歩く。酷暑でも同じことだ。とはいえ1時間ほど歩いて、限界が来たと思った。どこか、あの容赦のない太陽から逃れられる場所はないか。そしてどうせなら、冷たいアイスコーヒーなんて飲める場所があるといい。
新宿5丁目の大通りを歩いていると、気になるわき道が目に入った。入口に「三番街」と看板のある道で、車が多いメインストリートとは打って変わり、どこか懐かしい感じがする。
都会の音を背に商店街をほどなく進むと、オモチャがこぼれ出た玩具屋のような建物が見えてきた。店頭には時代を感じさせる犬や猫の置物がずらりと並んでいる。1978年創業の老舗ジャズ喫茶「カフェアルル」。生暖かい風にはためく「Coffee」ののぼりがなかったら、まさか喫茶店とは思わなかったかもしれない。胸を引かれて、扉を開いた。
髪を角刈りにした背広姿の男たちが、深い椅子に座ってコーヒーカップに指をかける―。そんな昭和の純喫茶の光景を、平成生まれのわたしは写真でしか見たことがない。カフェアルルに入ってまず浮かんだのは、“タイムスリップ”という単語だ。
温かい照明や木製の椅子、コーヒーの香りといった要素はもちろんだが、店内を唯一無二にしているのは、ところ狭しと飾られたアンティークとBGMのジャズ、そして2匹の猫だろう。こだわりの店には、72歳のマスター・根本治さんの人生とロマンが詰まっている。
「『アルルの女』という曲があるでしょう? 僕はこの曲が好きで、勝手に自分に合ってると思っているんです」と、店名は長く愛する“自分のテーマ曲”からつけた。深く響くジャズはミュージシャンのチェット・ベイカーの曲で、30年以上同じLPだけをループし続けている。アンティークは元摺(す)り師のフランスの友人が現地から送ってくれたもの。「(フランス人が見ても)珍しいのが多いらしい」と独特の雰囲気を醸している。
ムーディな店内には、ごろごろと喉を鳴らす2匹の猫がいる。昔は犬がいたが、道で拾った“先代”がかしこく、すっかり猫派に。いまの2匹は「二代目」で、「昔は猫が店にいると嫌がられることも多かったけど、最近はむしろそれ目当てで人が来る」と“招き猫”になっている。
話を聞きながら、アイスコーヒーをいただいた。ウォータードリップという手法を用いており、湯を使わずに水で10時間以上かけて抽出している。濃厚な味わいで、鼻から抜ける後味が美味しい。
時間と労力をかけているが、値段はたったの400円(税込)。チェーン店とほとんど変わらない手軽さで至極の一杯が飲める。「30年間値上げしていないんです」と言うから驚きだ。
「この商売が好きなんです。サービスですから、稼いで何をしようっていうのはない」。根本さんが大学時代を過ごしたお茶の水は、当時から街並みが変わった。「僕らの遊び場はなくなっちゃった。喫茶店っていうのは、思い出を共有する商売。変わらないものを、僕は提供していきたい。お客さんが『アルルに行きたい』ってなったときに、変わらずそこにあるように」
外に出ると夕方の風が吹いた。涼やかな風に、どれだけ暑くなっても、夏が終わるころは寂しいものなのだと気がついた。
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Edit & Text & photo : Hiroto Goda