厳しい暑さが続く毎日。そんな夏の夜を涼やかに彩る作品を、音楽ライターの小川智宏さんにセレクトしていただきました。
KAYTRANADA『TIMELESS』(2024)
お天気キャスターとして気象解説の分野で多大な影響を与えた故・倉嶋 厚氏が、ロシア語の気象用語を日本に持ち込んで使い始めたのが最初だとされる「熱帯夜」。最低気温が25℃以上の夜のことだ。なんだか風流でロマンティックな香りすら漂う言葉で、子どもの頃は「今夜は熱帯夜」と聞くとなんだかドキドキした記憶がある。しかし、大人になった今では、この言葉の立ち位置はゴキブリとかゲリラ豪雨などと同じで、つまり耳に入った瞬間に「あーっ!」と大声を出して耳を塞ぎたくなるような、嫌われ者に成り下がってしまっている。
ジメジメして蒸し暑い夜ほど寝苦しいものはない。エアコンつければ?と言われればそれまでで、もちろんそうしてはいるのだが、今度は体が冷えすぎて風邪をひいたりする。まったくわがままである。夏の夜はそこそこ涼しくて、時折爽やかな風が吹くぐらいがいい。とはいえ日本の、それも東京の夏にそれを期待するのはちょっと無理っぽい。ここは音楽の力に頼ることにしよう。
ハイチに生まれ、カナダ・モントリオールで育ったDJ/プロデューサーのKAYTRANADA(ケイトラナダ)ことルイ・ケヴィン・セレスティン。10代の頃から「Kaytradamus(ケイトラダムス)」という名義で往年のブラック・ミュージックの非公式リミックスをインターネット上にアップして注目を浴びていた彼は、20歳のときに今の呼び名に改め、名門インディ・レーベル「XL Recordings」と契約。2016年のデビュー・アルバム『99.9%』は本国カナダの音楽賞を席巻し、一躍人気プロデューサーの仲間入りを果たした。その後も錚々たるアーティストの作品に参加しながらコンスタントに作品をドロップ。2019年のセカンド・アルバム『BUBBA』はグラミー賞の最優秀エレクトロニック/ダンス・アルバム賞に輝いた。世界が惚れ込む、若手トッププロデューサーのひとりである。
そんなKAYTRANADAが今年6月、約4年半ぶりにリリースした最新作が『TIMELESS』だ。前作ほどの派手さやケレン味はないが、創作のマナーとニュアンスを味わうことができる、心地のいいアルバムである。彼の生み出すサウンドにはヒップホップやR&B、ソウル、ファンクといった数々の音楽へのリスペクトや博覧強記と同時に、それを軽やかなユーモアで乗りこなしてしまうセンスのよさがある。簡単にいえば「風通しがいい」のだ。強靭なビートにゆったり体を揺らし、重なる音のレイヤーに身を委ね、多彩なゲストのヴォーカルに耳を傾けていると、そのうち快い眠りにつける気がする。彼自身のルーツがどのように作用しているかはわからないが、吹き抜ける風に波の音…筆者は実際にカリブ海の夏の夜を体験したことはないのであくまで想像だが、熱帯夜のロマンが戻ってくる感じがするのである。
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小川智宏(おがわ・ともひろ)/音楽ライター
1983年生まれ。音楽雑誌「rockin'on」「ROCKIN'ON JAPAN」編集部を経て、現在はキュレーションサービス「antenna」(http://antenna.jp)の編集長を務める傍ら、音楽ライターとして各種雑誌・WEBメディアでアーティストへのインタビュー、レビューなどを執筆中。
Edit : Yu Sakamoto