最後にドキドキしたのはいつですか? ビジネス書や自己啓発本ばかりでなく、ときには大人の恋愛小説を手に取ってみてはいかがでしょうか。心に潤いを取り戻す一冊との出会いは、忙しない日常の中でオアシスの価値を持つはずです。東京・六本木の本屋「文喫」ブックディレクター・及川貴子さんに、静かに自分を見つめられる珠玉の作品を厳選してもらいました。
#1『水曜の朝、午前三時』/蓮見圭一
もしもあの時、違う選択をしていたら、いまごろはどんな人生を送っていただろう?そう考えたことが、誰しも一度はあるでしょう。ライフスタイルが劇的に変化するなかで、自分を振り返る時間や、これからの人生を見つめ直す機会も増えているのではないでしょうか。現在の人生に少しでも後悔や疑問が浮かんだ人に、ぜひ手にとって欲しいのがこの本です。
物語は、一人の女性が死の直前、娘に遺したカセットテープの内容を中心に進んでいきます。1970年の大阪万博に沸いたあの夏の、奇跡のような出会いとすれ違いに終わった愛。テープに吹き込んだ、あり得たかもしれないもうひとつの人生への切望。さまざまな感情を経験した彼女の口から語られる、人生への誇りが胸を打ちます。
「何にもまして重要なのは内心の訴えなのです。(中略)どういう人間として、どんな人生を送りたいのか。(中略)耳を澄まして、じっと自分の声を聞くことです。歩きだすのは、それからでも遅くはないのだから」。過去の出来事も、これからの行動や気持ちでその意味を変えられるというメッセージが印象深く、前を向いて歩き出したくなる一冊です。
#2『移動祝祭日』/ア-ネスト・ヘミングウェイ
20世紀のアメリカを代表する作家アーネスト・ヘミングウェイ。男性らしい、ヒロイックな生活態度をイメージする方が多いかもしれません。しかし、彼の描く恋人たちは、意外にもロマンティックで愛らしく、非常に繊細に描かれているギャップに引き込まれます。
本書は、ヘミングウェイが青春と文学修行の時代を過ごしたパリでの日々を描いたエッセイ(序文に、読者がお望みなら“小説”として読んでいただいてもいい、とあるのでお好みで)で、愛し合う若い夫婦、パリに集う同じ時代を生きた作家たち、パリの街灯など、美しい風景と思い出が流れるように紡がれています。
4度の結婚を経験したヘミングウェイが最期に描いたのは、最初の妻との明るく美しい思い出と、それが失われてゆくさまだったという事実が切ない。「あたしたち、ほかの人は絶対に好きにならないのよ」「彼女以外の女を愛したりする前に、死ねばよかった」という熱烈でロマンティックな文章に浸りながら、若き日の文豪のままならない恋模様を覗くことができます。
#3『赤い魚の夫婦』/グアダルーペ・ネッテル
「おうち時間」で自分の心や身の回りのことを考えることが増えた一方で、思う存分に外で過ごすことができず、なんだか退屈だと感じている人には、このメキシコ作家の短編集をおすすめします。
初めて親になろうとしている夫婦と赤い魚、伯母の家に預けられた少年とゴキブリ、妊娠した女学生と猫、不倫する男女と菌類、自分のルーツである北京を旅した父親と蛇という、一見、相容れない短篇5作品の組み合わせで、展開を予想できないところも本書の魅力の一つです。恋愛だけでなく、登場人物本人も気づかないような繊細で密やかな心の動きを、登場する生物が映し出します。
ひとつひとつの物語は短く読みやすいのに、作品に没頭していくと、度が強すぎる眼鏡をかけたときのような軽い酩酊感。気づけば人間と外界、そのほかの生物との境界が曖昧になってくる不思議な感覚をおぼえます。この本を読んだあとは、日常の風景や生活の些事、自分の心の中にも、新しい発見がありそうです。
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文喫 六本木 ブックディレクター 及川貴子
2018年日本出版販売入社。2021年よりYOURS BOOK STORE事業課にて外部企業・文喫 六本木の企画進行を担当。ブックディレクターとして、企画選書や展示イベント企画、本のある空間のプロデュースなどを行う。
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文喫 六本木
文化を喫する、入場料のある本屋。人文科学や自然科学からデザイン・アートまで約3万冊の書籍を販売している。閲覧室や研究室、喫茶室を併設し、企画展も定期的に開催。普段あまり出会うことのない新たな興味の入り口となっている。
住所:〒106-0032 東京都港区六本木6-1-20 六本木電気ビル1F
営業時間:9:00~20:00(L.O. 19:30)/不定休
https://bunkitsu.jp/
- Edit : Junko Itoi